『哲学なんていらない哲学』要約|自己啓発本に疲れたら読む哲学書
「正解」を求めない思考法
博士課程で認知科学を研究している僕は、自己啓発本を何冊も読んできた。しかし、ある時期から「疲れ」を感じるようになった。
「こうすれば成功する」「この習慣で人生が変わる」。そうした本には、いつも「正解」が用意されている。最初は励まされるが、次第に「正解」を追い求めることに疲弊していく。
あのの『哲学なんていらない哲学』は、そうした「正解探し」から解放してくれる一冊だ。
興味深いことに、2005年にProfessional Psychology: Research and Practice誌で発表されたレビューでは、哲学的カウンセリングが心理療法とは異なるアプローチで人々のウェルビーイングを向上させる可能性が示された(DOI: 10.1037/0735-7028.36.5.558)。
今回は、この異色の「哲学書」を、認知科学と哲学的カウンセリングの視点から考察する。
本書の概要
著者について
著者の「あの」は、歌手、女優、モデルとして活躍するアーティストだ。2022年にTVアニメ『チェンソーマン』エンディング・テーマ「ちゅ、多様性。」が大ヒットし、若い世代を中心に絶大な人気を誇る。
本書は、デビュー5周年を記念して出版された全編本人書き下ろしの一冊である。
本書の特徴
『哲学なんていらない哲学』は、従来の哲学書とも自己啓発本とも異なる。
「答え」を提示しない。代わりに、著者自身の思考のプロセスを見せてくれる。これまで歩んできた道のりや過去と対峙しつつ、さらなる飛躍への決意を刻んだ内容だ。
タイトルの「哲学なんていらない哲学」は逆説的だ。「哲学」という既成の枠組みすら否定することで、より自由な思考の可能性を開いている。
自己啓発本疲れの心理学
なぜ自己啓発本に「疲れる」のか
研究者のAd Bergsma(2008)によると、自己啓発本は**「心理学的知見が一般読者に届く最も重要な——しかし最も信頼性の低い——チャンネル」**かもしれない。
2024年のMedia, Culture & Society誌の研究では、興味深い指摘がなされている(DOI: 10.1177/01634437231198431):
「自己啓発の読者は、単に本を読んでいるだけで自分が変わっていると思い込むことがある」
研究参加者たちは、自己啓発本を読むだけでは持続的な変化をもたらすには不十分だと認めている。
この「読んでいるだけで変われる」という錯覚と、実際には変われないという現実のギャップが、「自己啓発本疲れ」の一因かもしれない。
「正解」を求めることの問題
自己啓発本の多くは、「こうすれば良くなる」という処方箋を提示する。これは一見親切だが、問題もある。
- 画一的な解決策: 人それぞれ状況が異なるのに、同じ解決策を提示する
- 依存の構造: 次の「正解」を求めて、また別の本を買う
- 自己責任の強調: うまくいかないのは「自分のせい」になる
『哲学なんていらない哲学』は、この構造から外れている。「正解」を提示しないからだ。
哲学的思考とメンタルヘルス
哲学的カウンセリングとは
1980年代にドイツのゲルト・アッヘンバッハによって始められた哲学的カウンセリングは、心理療法とは異なるアプローチで人々の悩みに向き合う。
2005年のレビューによると、哲学的カウンセラーは以下のような特徴を持つ:
- 傾聴を重視するタイプ: 非指示的な心理療法に近い
- 認知的アプローチを使うタイプ: クライアントの非合理的な前提を特定し、対峙する
どちらのタイプも、「答え」を与えるのではなく、思考のプロセスを共にする点で共通している。
知恵とメンタルヘルスの関係
Jeste & Lee(2019)の研究では、知恵(wisdom)がメンタルヘルスと密接に関連していることが示されている。
ここでいう「知恵」は、哲学的知恵——実践的な生きた経験から得られる洞察——を指す。これは、本を読んで得る知識とは異なる。
『哲学なんていらない哲学』で著者が見せてくれるのは、まさにこの「哲学的知恵」に近いものだ。答えではなく、思考の軌跡。
本書の読みどころ
1. 既成の枠を超える思考
タイトルが示すように、本書は「哲学」という枠組みすら疑っている。
従来の哲学書は、過去の哲学者の思想を解説したり、論理的に議論を展開したりする。本書はそうした形式を取らない。
代わりに、著者の率直な思考と感情が綴られている。それは「哲学」の定義からは外れているかもしれないが、哲学の本質——問いを立て、考え続けること——には忠実だ。
2. 過去との対峙
本書には、著者がこれまで歩んできた道のりが描かれている。成功の裏にある苦悩、過去の自分との対話。
これは、自己啓発本が描く「成功物語」とは異なる。成功に至るまでの「正しいステップ」ではなく、迷いながらも進んできた軌跡だ。
読者は、この軌跡に自分を重ねることができる。「自分も迷っていい」と思えるかもしれない。
3. 独創的な表現
写真家・松岡一哲による写真も本書の魅力だ。長年タッグを組んできたからこそ引き出された、自然体の素顔が収められている。
文章と写真が一体となって、著者の「哲学」を表現している。
認知科学者から見た本書の価値
「考え方を教える」のではなく「考え方を見せる」
自己啓発本の多くは、「この考え方を身につけなさい」と指示する。しかし、思考法は指示されて身につくものではない。
本書は、著者自身の思考を「見せる」ことで、読者に考えるきっかけを与える。これは、認知科学でいう**モデリング(観察学習)**に近い。
他者の思考プロセスを観察することで、自分の思考も変わる可能性がある。
「わからなさ」を受け入れる
本書は「正解」を提示しない。それは、読者に「わからなさ」を残す。
一見不親切に思えるが、これは重要だ。「わからない」という状態に耐えることは、哲学的思考の基盤だからだ。
自己啓発本は、「わからなさ」をすぐに埋めようとする。しかし、人生の多くの問題には明確な答えがない。「わからない」を受け入れながら生きることが必要だ。
多様な生き方の承認
著者は、既成の枠を超えた生き方をしている。その姿を見せることで、読者に「自分も枠を超えていい」というメッセージを送っている。
これは、心理学でいうロールモデル効果に近い。多様な生き方を見ることで、自分の選択肢も広がる。
誰におすすめか
- 自己啓発本に疲れた人: 「正解」を求めないアプローチを体験できる
- 答えのない問いを抱えている人: 「わからない」を共有できる
- 若い世代: 同世代のアーティストの思考に触れられる
- 哲学に興味があるが難しい本は苦手な人: 親しみやすい入口になる
注意点
本書は、従来の意味での「哲学書」ではない。プラトンやカントの解説は載っていない。
また、具体的な「ハウツー」も載っていない。「この本を読めばこうなれる」という期待は捨てた方がいい。
その代わり、考えるきっかけを得られる。それが本書の価値だ。
まとめ:哲学は「答え」ではなく「問い」にある
あの『哲学なんていらない哲学』は、自己啓発本の文法に従わない異色の一冊だ。
研究が示すように、哲学的思考はメンタルヘルスと関連している可能性がある。しかし、それは「正解」を知ることではなく、問い続けることの中にある。
自己啓発本で「正解」を追い求めて疲れたとき、この本は違う視点を与えてくれるかもしれない。「哲学なんていらない」と言いながら、実は最も哲学的な本。そんな逆説が、この本の魅力だ。
