『求めない練習』要約|ミニマリズム時代のショーペンハウアー幸福論
「もっと欲しい」の罠
博士課程で認知科学を研究している僕は、ある時期「もっと業績を」「もっと認められたい」という欲望に駆られていた。
論文を出しても次の論文が気になる。成果を出しても、他人の成果と比較してしまう。手に入れたものよりも、まだ手に入れていないものに意識が向く。
この「もっと欲しい」の連鎖は、19世紀の哲学者ショーペンハウアーが指摘した**「振り子」の比喩**そのものだった。
興味深いことに、2007年にJournal of Happiness Studies誌で発表された研究では、ショーペンハウアーの幸福論と現代の幸福研究の間に驚くべき一致が見られることが示された(DOI: 10.1007/s10902-006-9039-9)。
今回は、韓国で60万部を突破したカン・ヨンス『求めない練習』を、現代のウェルビーイング研究と照らし合わせながら要約する。
本書の概要
著者について
著者のカン・ヨンス氏は、高麗大学哲学研究所の研究員だ。高麗大学と大学院で西洋哲学を専攻し、ドイツのヴュルツブルク大学で博士号を取得した。ショーペンハウアー研究の専門家である。
本書は韓国で60万部、262刷を記録したロングセラーで、「IVEウォニョンも愛読」として話題になった。Amazonドイツ・オーストリアの思想カテゴリで1位も獲得している。
ショーペンハウアーとは
アルトゥル・ショーペンハウアー(1788-1860)は、ドイツの哲学者だ。
彼は「悲観主義の哲学者」として知られる。人生は苦しみに満ちており、欲望を満たしても次の欲望が生まれるだけ——というのが彼の基本的な見方だ。
しかし、本書は彼の思想を「絶望」ではなく「幸福論」として読み直す。
本書の核心的メッセージ
本書の核心は、**「幸福とは欲望の充足ではなく、欲望の不在である」**という主張だ。
ショーペンハウアーによれば:
- 欲望を満たしても、すぐに次の欲望が生まれる
- 欲望を追い求める限り、満足は得られない
- 真の幸福は、欲望を「減らす」ことで得られる
これは、現代のミニマリズムと驚くほど重なっている。
ショーペンハウアーの「振り子」理論
苦痛と退屈の間
ショーペンハウアーは、人間の状態を**「振り子」**に喩えた。
振り子は、苦痛と退屈の間を揺れ動く:
- 欲望が満たされないとき → 苦痛を感じる
- 欲望が満たされたとき → 退屈を感じる
つまり、欲望を追い求めている間は苦しく、手に入れると退屈になる。どちらにしても、持続的な幸福は得られない。
研究によるショーペンハウアーの検証
2007年の研究では、ショーペンハウアーの幸福論が現代の心理学研究とどの程度一致するかが検討された。
興味深い発見:
- 悲観主義は生産的でありうる: ショーペンハウアーは、悲観的な世界観と主観的ウェルビーイングを両立できると考えていた
- 苦しみの相対化: 悲観主義者にとって苦しみは「誰もが経験するもの」であり、孤独感や自己批判が軽減される
- 楽観主義者の苦しみ: 楽観主義者は苦しみを「自分だけの例外」と感じるため、より辛く感じる可能性がある
これは直感に反するが、「期待を下げる」ことで幸福度が上がるという知見は、現代の心理学でも報告されている。
ミニマリズムとウェルビーイングの研究
システマティックレビューの結果
2023年にThe Journal of Positive Psychology誌で発表されたシステマティックレビューでは、ミニマリズム(自発的簡素さ)とウェルビーイングの間に一貫した正の相関が示された(DOI: 10.1080/17439760.2021.1991450)。
このレビューは、複数の研究を統合して以下の結論を導いた:
- 物質主義的価値観を重視しない人ほど、ウェルビーイングと心理的健康のレベルが高い
- ミニマリズムがウェルビーイングを向上させるメカニズムとして、「消費欲求のコントロール」と「心理的欲求の充足」が挙げられた
ミニマリズムの効果
研究によると、ミニマリズム的ライフスタイルは以下の効果をもたらす:
| 効果 | メカニズム |
|---|---|
| 経済的ストレスの軽減 | 消費を減らすことで債務が減る |
| 自律性の向上 | 「持たない」選択が心理的自由をもたらす |
| マインドフルネスの促進 | 少ないものに意識を向けられる |
| 社会的関係の深化 | 物より人との関係に時間を使える |
これらは、ショーペンハウアーが200年前に主張した「欲望を減らすことで幸福になる」という考えと一致している。
ミレニアル・Z世代の研究
2023年の研究では、ミレニアル世代におけるミニマリズムとウェルビーイングの関係が調査された。
結果:
- 環境意識、現代的美学、自発的簡素さ、規範的影響、資源共有がミニマリズムに正の影響を与える
- ミニマリズムとウェルビーイングの関係は、充実感によって媒介される
- スパースな美学(少ないものの美しさ)がミニマリズムの最も重要な先行要因だった
本書から学ぶ「求めない」技術
1. 期待を下げる
ショーペンハウアーは、期待を下げることで苦痛を減らせると考えた。
期待が高ければ高いほど、現実とのギャップに苦しむ。最初から期待を持たなければ、その苦しみは生じない。
これは「諦め」ではない。現実を正確に認識するリアリズムだ。
2. 「足るを知る」
欲望を満たしても次の欲望が生まれるなら、今あるもので「足りている」と感じる練習が必要だ。
本書では、ショーペンハウアーの「足るを知る」思想が、具体的な実践として紹介されている。
3. 内面に目を向ける
外部の成功(出世、富、名声)は、一時的な満足しか与えない。
ショーペンハウアーは、内面の充実こそが持続的な幸福をもたらすと考えた。読書、思索、芸術鑑賞など、内的な活動を重視した。
4. 他者との比較をやめる
欲望の多くは、他者との比較から生まれる。「あの人が持っているから自分も欲しい」。
ショーペンハウアーは、この比較のゲームから降りることを勧めた。
認知科学者から見た本書の価値
「ヘドニック・トレッドミル」との一致
心理学には**「ヘドニック・トレッドミル(快楽のランニングマシン)」**という概念がある。
人は良いことが起きると一時的に幸福になるが、すぐに元のレベルに戻る。そしてまた次の「良いこと」を求める。ランニングマシンの上を走り続けるように、進んでいるようで同じ場所にいる。
これは、ショーペンハウアーの「振り子」とほぼ同じ洞察だ。200年前の哲学者が、現代心理学の知見を先取りしていた。
「求めない」は脳に優しい
認知科学の観点からは、「求める」状態は脳にとって高負荷だ。
常に「もっと」を考えていると、ワーキングメモリが消費され、注意が分散し、ストレスホルモンが分泌される。
「求めない」状態は、この認知負荷から解放される。脳のリソースを、今この瞬間に集中させることができる。
ミニマリズムと認知
研究が示すように、ミニマリズムはマインドフルネスを促進する。
物が少ないと、一つ一つのものに意識を向けやすくなる。これは、注意の分散を防ぎ、「今ここ」への集中を助ける。
誰におすすめか
- 「もっと欲しい」の連鎖に疲れた人: 欲望を減らす哲学的根拠が得られる
- ミニマリズムに興味がある人: 哲学的な深みを加えられる
- 自己啓発本に違和感を感じる人: 「成功」を目指さないアプローチを学べる
- 哲学に興味があるが難しい本は苦手な人: 現代的な文脈で読める
注意点
本書は「何も欲しがるな」という極端な主張ではない。
ショーペンハウアーも、生存に必要な欲求や、知的・芸術的活動への欲求は肯定している。問題は、際限なくエスカレートする消費的欲望だ。
また、「求めない」ことは状況によっては適切でない場合もある。不当な扱いに対して声を上げることや、正当な権利を主張することは必要だ。
本書の教えは、「すべてを諦める」ことではなく、何を本当に求めるべきかを見極めることだと理解した方がいい。
まとめ:200年前の知恵が、現代を救う
カン・ヨンス『求めない練習』は、19世紀の哲学者ショーペンハウアーの思想を現代に蘇らせた一冊だ。
研究が示すように、ミニマリズムとウェルビーイングには正の相関がある。ショーペンハウアーの「欲望を減らす」という教えは、現代科学によって裏付けられつつある。
「もっと欲しい」の連鎖から抜け出したいとき、この本は一つの道筋を示してくれる。それは、200年前の哲学者が歩いた道であり、現代のミニマリストたちが再発見しつつある道でもある。
