知の巨人たちの遺産!2025年に逝去した著者を偲び、その叡智を継承する
2025年、私たちは多くの知識人を失った
2025年は、知の世界にとって大きな喪失の年となりました。
経営学の世界に革命をもたらした野中郁次郎先生が1月に89歳で旅立たれ、安全科学の父と呼ばれるジェームズ・リーズン氏が2月に86歳で逝去されました。そして11月には、文壇の異端児として独自の境地を切り開いた嵐山光三郎氏が83歳で亡くなられています。
認知科学を専攻する私にとって、特にリーズン氏の「ヒューマンエラー」は学部時代からの愛読書でした。野中先生のSECIモデルは、知識がどのように創造され共有されるかを理解する上で欠かせない理論です。そして嵐山氏のエッセイは、学術論文とはまた違った形で人間を深く理解させてくれるものでした。
今回は、これら3人の知の巨人が遺した業績と、彼らの思想に触れることができる書籍を紹介します。年末のこの時期に、改めて偉大な知識人たちへの敬意を込めて。
野中郁次郎——知識創造理論の父
SECIモデルという革命的発見
野中郁次郎先生(1935-2025)は、一橋大学名誉教授として世界的に知られる経営学者でした。興味深いことに、野中先生の最大の功績は、それまで暗黙の了解とされていた「暗黙知」を学術的に体系化したことにあります。
野中先生が竹内弘高氏と共に提唱したSECIモデルは、知識創造のプロセスを4つの段階で説明します。
**共同化(Socialization)**では、暗黙知から暗黙知への変換が起こります。職人が弟子に技を教える場面を想像してください。言葉では説明しきれない「コツ」が、体験の共有を通じて伝わっていく過程です。
**表出化(Externalization)**は、暗黙知を形式知に変換する段階です。「なんとなくわかっていること」を言語化し、概念として明確にするプロセスといえます。
**連結化(Combination)**では、形式知同士が組み合わされ、より高度な知識体系が生まれます。異なる分野の知識が統合されて新しい発見につながる瞬間です。
**内面化(Internalization)**は、形式知が再び暗黙知として個人に定着する段階です。マニュアルを読んで学んだことが、やがて「身体が覚えている」状態になるわけです。
『失敗の本質』が示した組織の病理
野中先生のもう一つの代表作が『失敗の本質』です。この本は、第二次世界大戦における日本軍の組織的失敗を分析したもので、現代の組織論においても必読書とされています。
データによると、この本が指摘する問題——目的のあいまいさ、短期的思考、組織の硬直性、失敗からの学習の欠如——は、現代の企業組織にも驚くほど当てはまります。私が所属する研究室でも、この本の分析枠組みを使って現代の組織事例を検討することがあります。
ジェームズ・リーズン——安全科学のパイオニア
スイスチーズモデルの衝撃
ジェームズ・リーズン氏(1938-2025)は、マンチェスター大学の心理学者として、ヒューマンエラーと組織事故の研究で世界的な影響力を持った人物です。
リーズン氏の最も有名な貢献は「スイスチーズモデル」です。このモデルは、事故がどのように発生するかを直感的に理解させてくれます。
組織には複数の防護層(スイスチーズのスライス)があり、各層が事故を防いでいます。しかし、どの層にも「穴」(弱点や欠陥)が存在します。通常はこれらの穴の位置がずれているため、一つの層を突破しても次の層で止まります。
興味深いことに、事故が起きるのは、これらの穴が偶然一直線に並んだときなのです。つまり、大事故の多くは「個人のミス」ではなく「システムの欠陥」によって引き起こされるというわけです。
認知科学から見たヒューマンエラー
リーズン氏の著作『ヒューマンエラー』は、認知科学の視点からエラーを分類した画期的な研究です。
リーズン氏は、エラーをスリップ(意図した行動の実行ミス)、ラプス(記憶の失敗)、ミステイク(判断や計画の誤り)に分類しました。この分類は現在も航空、医療、原子力など多くの分野で活用されています。
仮説ですが、この分類が有効なのは、人間の認知プロセス(注意、記憶、意思決定)に対応しているからだと考えられます。エラーの種類がわかれば、それぞれに適した対策を講じることができます。認知科学の最新動向については2025年認知科学ベストブックでも詳しく紹介しています。
嵐山光三郎——文壇の異端児にして達人
文人たちの「悪食」に迫る
嵐山光三郎氏(1942-2025)は、平凡社『太陽』の編集長を務めた後、作家・エッセイストとして独自の境地を開いた人物です。
嵐山氏の代表作『文人悪食』は、明治から昭和にかけての文豪たちの食生活を追った異色のエッセイ集です。夏目漱石、森鷗外、太宰治といった文豪たちが何を食べ、どのように食と向き合っていたかを、嵐山氏特有の軽妙な筆致で描いています。
興味深いことに、食という切り口から文豪を見ると、作品からは見えてこない人間像が浮かび上がってきます。文学研究とは異なるアプローチでありながら、人間理解を深めるという点では通底するものがあります。
芭蕉を「悪党」として読み解く
『悪党芭蕉』は、嵐山氏が泉鏡花文学賞と読売文学賞をダブル受賞した傑作です。
従来の芭蕉像——清貧で高潔な俳聖——を覆し、嵐山氏は芭蕉を「したたかな戦略家」として描きました。俳諧の世界で成り上がるために、芭蕉がいかに周到に自己プロデュースを行ったかを明らかにしています。
これは認知科学的に言えば、「聖人」という固定観念(スキーマ)を意図的に崩すことで、新しい理解を生み出す手法といえます。嵐山氏の批評的視点は、私たちの思い込みを揺さぶり、対象を多角的に見る訓練になります。
遺された叡智に触れるためのおすすめ書籍
野中郁次郎の知識創造理論を学ぶ
『知識創造企業』は、SECIモデルを世界に広めた記念碑的著作です。原著は英語で書かれ、ハーバード・ビジネス・レビューの「過去75年で最も影響力のあるハーバード・ビジネス・レビュー掲載論文」にも選ばれています。
リーズンのヒューマンエラー研究を深める
『ヒューマンエラー 完訳版』は、リーズン氏の主著の完全翻訳版です。認知心理学の知見を基に、なぜ人間はエラーを起こすのかを体系的に解説しています。安全管理の専門家だけでなく、人間の認知に興味のある方にもおすすめです。
嵐山光三郎のエッセイを味わう
『文人悪食』は、文学好きはもちろん、食に興味のある方にも楽しめる一冊です。嵐山氏の博識と軽妙な語り口が、読書の楽しみを教えてくれます。
『悪党芭蕉』は、芭蕉に対する固定観念を覆す刺激的な評伝です。文学作品の新しい読み方を教えてくれます。
知の遺産を次世代へ——私たちにできること
2025年に逝去された3人の知識人は、それぞれまったく異なる分野で活躍されました。しかし、共通点があります。それは、既存の常識を疑い、新しい視点を提示したということです。
野中先生は「暗黙知」という捉えどころのない概念を体系化しました。リーズン氏は「事故は個人のせいではなくシステムの問題」という視点を確立しました。嵐山氏は「聖人としての芭蕉」という固定観念を覆しました。
私たち読者にできるのは、彼らの著作を読み、その思想を理解し、自分の生活や仕事に活かすことです。そして、次の世代にその知恵を伝えていくことです。
年末のこの時期、一冊でも彼らの著作を手に取ってみてはいかがでしょうか。知の巨人たちが遺した叡智は、私たちの思考を豊かにし、新しい視点を与えてくれるはずです。
最後に、認知科学を学ぶ者として、ヒューマンエラー研究の父であるリーズン氏の言葉を引用して締めくくりたいと思います。「エラーは人間の本質であり、それを責めることには意味がない。重要なのは、エラーが起きても安全を保てるシステムを作ることだ」——この言葉は、私たちが人間をどう理解し、どう社会を設計するかについて、深い示唆を与えてくれます。





