災害心理学本おすすめ5選!認知バイアスが招く避難遅れのメカニズムを解明
興味深いことに、東日本大震災の津波で犠牲になった方の多くは、「逃げなかった」のではなく「逃げられなかった」わけでもない。多くの場合、「逃げる判断が遅れた」のだ。
この現象を認知科学の視点から分析すると、人間の脳に組み込まれた「認知バイアス」が深く関わっていることがわかる。私は博士課程で認知科学を専攻しているが、災害心理学ほど、人間の認知システムの限界と可能性が如実に表れる分野は少ないと考えている。
首都直下型地震は、今後30年以内に70%の確率で発生すると予測されている。これは統計的に見て「起こるかもしれない」ではなく、「いつ起こってもおかしくない」レベルの数値だ。だからこそ、災害時の人間心理を理解することが、命を守る第一歩になる。
今回は、災害心理学の知見を体系的に学べる5冊を、認知科学的な視点から紹介したい。
なぜ人は災害から逃げ遅れるのか?認知バイアスの正体
正常性バイアス:「自分だけは大丈夫」という認知の罠
災害心理学で最も重要な概念の一つが「正常性バイアス(Normalcy Bias)」だ。
これは、自分にとって都合の悪い情報を無視・過小評価する認知傾向を指す。津波警報が出ても「大したことないだろう」と判断したり、避難指示が出ても「うちは高台だから大丈夫」と思い込んだりする心理がこれに該当する。
興味深いことに、正常性バイアスは進化の過程で獲得された適応的な機能でもある。日常生活のあらゆるリスクに対して過剰反応していては、精神的に疲弊してしまう。脳は「通常の状態が続く」という前提でエネルギーを節約しているのだ。
しかし、災害という非日常的状況では、この省エネモードが致命的な遅れを生む。データによると、災害発生から避難開始までの時間と生存率には明確な相関があり、初動の遅れが文字通り生死を分けることがある。
同調バイアス:周囲の行動に引きずられる心理
もう一つ重要な認知バイアスが「同調バイアス(Conformity Bias)」だ。
人間は社会的動物であり、周囲の行動を参照して自分の行動を決める傾向がある。これは通常、社会生活を円滑にする適応的な機能だが、災害時には危険な方向に働くことがある。
具体的には、「周りの人が逃げていないから、きっと大丈夫だろう」という判断につながる。特に日本では、「周囲に合わせる」文化的傾向が強いため、この同調バイアスの影響が顕著に表れやすい。
仮説だが、この同調バイアスを逆手に取ることで、避難行動を促進できる可能性がある。実際、「率先避難者」の存在が周囲の避難行動を誘発することが研究で示されている。
二重過程理論と災害時の判断
認知科学の重要な理論フレームワークの一つに、ダニエル・カーネマンが提唱した「二重過程理論(Dual Process Theory)」がある。
- System 1(速い思考): 直感的、自動的、感情的な判断
- System 2(遅い思考): 論理的、分析的、意識的な判断
災害時は時間的プレッシャーや強いストレスにより、System 1が優位になりやすい。その結果、論理的な分析よりも直感的な判断に頼りがちになり、認知バイアスの影響を受けやすくなるのだ。
災害心理学本おすすめ5選
1. 人はなぜ逃げおくれるのか ―災害の心理学
災害心理学を学ぶなら、まずこの一冊から始めることを強くおすすめする。
著者の広瀬弘忠氏は東京女子大学教授として長年災害心理学を研究してきた第一人者だ。『人はなぜ逃げおくれるのか』は2004年の刊行だが、20年以上経った今でも災害心理学の入門書として最も読みやすく、かつ体系的にまとまっている。
この本の特徴は、正常性バイアス、楽観主義バイアス、同調バイアスといった認知バイアスを、具体的な災害事例と結びつけて解説していること。抽象的な心理学理論が、実際の避難行動とどう結びつくのかが直感的に理解できる。
原著論文にあたることを重視する私の立場から見ても、この本は学術的な厳密さと一般読者への読みやすさのバランスが絶妙だ。参考文献も豊富に記載されており、より深く学びたい人への道標にもなる。
2. 防災心理学入門―豪雨・地震・津波に備える
京都大学防災研究所教授による防災心理学の入門エッセイ
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京都大学防災研究所教授の矢守克也氏による入門書。広瀬弘忠氏の本が「災害時の人間心理」に焦点を当てているのに対し、矢守氏の本は「どうすれば備えることができるか」という実践的な視点が強い。
興味深いのは、矢守氏が提唱する「常に防災を意識し備える」という考え方だ。これは認知科学的に言えば、災害を「非日常」として切り離すのではなく、「日常の延長線上」に位置づけることで、正常性バイアスの影響を軽減しようというアプローチに他ならない。
本書は学術書ほど堅くなく、かといって一般向け防災本ほど表面的でもない、ちょうど良い深さで書かれている。防災心理学の考え方を日常生活に取り入れたい人に特におすすめだ。
3. 避難学 「逃げる」ための人間科学
2024年最新刊。避難行動に関する従来の思想を根本的に転換する学術書
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同じく矢守克也氏による2024年10月刊行の最新刊。価格は高めだが、避難行動研究の最前線を知りたい人には必読の一冊だ。
この本の革新性は、従来の「避難させる」という発想から、「逃げる力を育てる」という発想への転換を提唱している点にある。
従来の防災教育は、「正しい情報を与えれば人は適切に避難する」という前提に立っていた。しかし、実際には情報があっても避難しない人が多数存在する。矢守氏は、この現象を単なる「無知」や「油断」で片付けるのではなく、人間の認知システムの構造的な問題として捉え直している。
原著論文では、この本の基盤となる研究が複数発表されている。追試研究も進んでおり、学術的な信頼性は高いと評価できる。
4. 情報を正しく選択するための認知バイアス事典
論理学・認知科学・社会心理学の60項目の認知バイアスを図解
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災害心理学に特化した本ではないが、認知バイアスを体系的に理解するための必携書として紹介したい。
高橋昌一郎氏監修のこの事典は、60項目の認知バイアスを論理学・認知科学・社会心理学の3つの視点から図解している。正常性バイアス、楽観主義バイアス、確証バイアスなど、災害時の判断に影響するバイアスも網羅されている。
私がこの本を評価する理由は、各バイアスの説明が学術的に正確でありながら、図解により直感的に理解できる構成になっていることだ。災害心理学の専門書を読む前に、あるいは読んだ後の整理として、非常に有用な一冊である。
5. ファスト&スロー(上)あなたの意思はどのように決まるか?
2002年ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの名著。災害心理学の本ではないが、先に述べた二重過程理論(System 1とSystem 2)の原典として、災害時の人間心理を理解するための必読書だ。
カーネマンの研究の価値は、人間の判断がいかに非合理的であるかを実験的に証明したことにある。「人間は合理的に行動する」という経済学の大前提を覆したこの研究は、災害時の「なぜ逃げないのか」という問いに対する根本的な答えを与えてくれる。
上下巻合わせて読むと相当なボリュームだが、少なくとも上巻のSystem 1とSystem 2に関する章は、災害心理学を学ぶ上での基礎教養として強くおすすめする。
認知バイアスを克服するための実践的アプローチ
5冊の本から得られる知見を総合すると、災害時の認知バイアスを克服するためのいくつかの実践的アプローチが見えてくる。
事前の「もしも」シミュレーション
System 2(論理的思考)が機能している平常時に、災害時の行動を具体的にシミュレーションしておくことが重要だ。「津波警報が出たら、まず○○に向かって逃げる」といった具体的な行動プランを事前に決めておくことで、災害発生時のSystem 1の判断を適切な方向に誘導できる。
率先避難者になる覚悟
同調バイアスは、良い方向にも悪い方向にも作用する。「周りが逃げていないから逃げない」という負の連鎖を断ち切るには、自分が率先避難者になる覚悟が必要だ。
仮説だが、「率先避難者になる」という意識を持つことで、自分自身の正常性バイアスも軽減される可能性がある。「周りのためにも逃げる」という社会的動機が、個人の認知バイアスを上書きするのではないかと考えている。
災害情報の「受け取り方」を変える
広瀬氏や矢守氏の研究が示唆するのは、災害情報の「出し方」だけでなく「受け取り方」も重要だということだ。
具体的には、警報や避難指示を「自分に向けられたメッセージ」として受け取る訓練が有効だ。テレビの速報を見て「大変だな」と他人事のように感じるのではなく、「これは私への警告だ」と解釈する習慣をつけることで、正常性バイアスの影響を軽減できる。
知識が命を守る
災害心理学の知識は、知っているだけでは意味がない。重要なのは、その知識を自分自身の行動変容につなげることだ。
「正常性バイアス」という言葉を知っているだけでは、災害時に正常性バイアスの罠から逃れることはできない。しかし、「自分も正常性バイアスに陥る可能性がある」と意識し、事前に対策を講じておくことで、いざという時の行動が変わる。
今回紹介した5冊は、いずれも災害時の人間心理を科学的に理解し、その理解を行動変容につなげるための知見を提供してくれる。首都直下型地震がいつ起きてもおかしくない現代において、これらの本を読むことは、自分と大切な人の命を守るための投資だと考えている。
興味深いことに、災害心理学の知見は、災害時だけでなく日常の意思決定にも応用できる。認知バイアスを理解することは、より良い判断を行うための普遍的なスキルなのだ。




