レビュー
概要
『「ポスト宮崎駿」論 日本アニメの天才たち』は、「宮崎駿のいない日本アニメ」を前提に、現代日本アニメの才能と潮流を俯瞰し、作品・監督・制作のあり方を整理する評論です。新海誠『君の名は。』以降の熱狂を入口に、市場規模の拡大や海外展開の現実を踏まえつつ、押井守、今敏、細田守、庵野秀明、片渕須直、米林宏昌、山田尚子など、多彩な作家たちを「ポスト宮崎駿」の問いに接続していきます。
アニメの紹介本というより、「何が“天才”を生み、何が天才を潰すのか」という産業論と美学の中間にある本です。作品名が大量に出てきますが、羅列ではなく、監督の癖と時代の条件を結びつけながら話が進むので、読み終えると地図が手に入ります。
読みどころ
1) 新海誠章が、「君の名は。」の位置づけを具体で語る
第1章は新海誠。「『彼女と彼女の猫』と『君の名は。』のあいだ」という副題が象徴的で、プライベート・アニメから始まった作家が、なぜ国民的ヒットへ至ったのかを、引用の特異性や“新鮮な既視感”といった言葉で捉え直します。「震災後作品か」「喪失のその先に」といった論点も出てきて、単なる大ヒット解説になりません。
2) 押井守・今敏・細田守・庵野秀明を「実験と成熟」の軸で見る
第2章は「映像実験と躍動感のドラマ」。押井守の原作との距離、今敏の祝祭と悪夢、細田守の宮崎駿との距離感、庵野秀明の“何度やり直しても地獄”の感覚など、監督ごとの手触りを、同じ地図上に並べます。深夜アニメやノイタミナムービーの位置づけが入るのも実用的です。
3) ジブリ史と「宮崎駿じゃないジブリ」の章が、後継問題を現実にする
第3章はジブリまでのアニメ史(東映動画、虫プロダクション、手塚治虫、高畑勲、『ナウシカ』『ラピュタ』の実現の苦労など)。第四章は「宮崎駿じゃないジブリ」で、高畑勲、近藤喜文、森田宏幸、宮崎吾朗、米林宏昌らの苦闘が語られます。「ジブリらしさ」と「宮崎駿らしさ」を分けて考える視点が残ります。
本の具体的な内容
本書はまず、序章で「宮崎駿のいない日本アニメ」という状況を確認します。宮崎作品が興行収入で圧倒的だった事実を踏まえたうえで、その不在が“空白”で終わらず、多様な才能の同時代性として現れていることを示します。ここで読者は、ポスト宮崎駿という問いが「次の1人を探す」だけではなく、「制作の条件をどう整えるか」の問いでもあると分かります。
第1章の新海誠論は、ヒットの説明を“運”や“時代の波”に押し込めません。『君の名は。』が250億円規模になったことへの本人の戸惑い、セカイ系というレッテル、古典からの引用、SF・ファンタジー・オカルトと地続きの神話世界(アガルタ)といった論点が並びます。好きな物を何でも取り込む引用の作法が、現代神話としての強度を作った、という見立ては説得力があります。
第2章は、監督たちを“実験と娯楽”のあいだで読む章です。押井守の「ひとりよがり」と「独自性」の境界、今敏の原色と悪夢、細田守の青空と虚無、庵野秀明の反復の地獄。さらに、人気マンガ原作や深夜アニメの制作プログラムがどう映画へ接続したかも扱い、作家論が産業論へ接続していきます。
第3章・第四章では、日本アニメ史とジブリ史が整理されます。『白蛇伝』からの名作路線、手塚治虫の功罪、テレビ局・広告会社との系列、赤字が背中を押した作品づくり。高畑勲の社会性、職人としての近藤喜文の端正さ、米林宏昌の自立、声優選びの流儀など、「宮崎駿の作品」ではないところにジブリの本体がある、と分かってくる構成です。
最後の第5章「新しい日本アニメのために」は、制作スタイル、オリジナリティ、技術革新を論じます。京アニの社員監督としての山田尚子、『この世界の片隅に』を作った片渕須直の原作選び、デジタル化の初期投資、3Dか2Dかの二者択一ではない議論など、未来に向けた現実的な論点が並びます。読み終えると、「好きな監督」だけでなく「作品が成立する条件」まで考えるようになるはずです。
類書との比較
アニメ評論は作品の解釈に寄りがちですが、本書は制作と産業の条件を同じ重さで扱います。そのため、特定作品への愛を語る本というより、アニメ全体の見取り図として強い。作品名の多さに圧倒されそうでも、章立てが明確なので、辞書のように参照して読めます。
こんな人におすすめ
- 宮崎駿以降の日本アニメを「点」ではなく「流れ」で理解したい人
- 監督の個性と、制作条件(会社・産業・技術)の関係に興味がある人
- アニメを語るとき、作品解釈だけでなく背景の議論もしたい人
感想
この本を読んで面白かったのは、ポスト宮崎駿を「次の天才探し」で終わらせず、制作の条件を問う話にしていたことです。天才は突然出てくるように見えて、実際は“出られる環境”がある。逆に言えば、環境が壊れると天才も潰れる。その現実味が、作品名の列挙ではなく議論として残りました。