レビュー
概要
『世界99 上』は、村田沙耶香らしい不穏さが、これまで以上に大きなスケールへ拡張された長編です。主人公は如月空子。空子は「性格のない人間」として描かれ、コミュニティごとにふさわしい人格を作るために、〈呼応〉と〈トレース〉を駆使して生き延びてきます。この設定だけでも十分に異様ですが、本書はそこへピョコルンという奇妙な存在を置き、個人の違和感をやがて社会全体の変質へつなげていきます。
序盤から感じるのは、空子が自分の核を持たないのではなく、むしろ周囲に合わせすぎることでしか生きられない人間として描かれていることです。相手や場に応じて人格を調整し、「安全」と「楽ちん」を優先して日々をやり過ごす。その適応の仕方が、現代のSNSや職場や学校の空気とかなり地続きに見えるので、設定が奇抜でも遠い話になりません。村田沙耶香がずっと書いてきた「普通のふり」の圧力が、ここではさらに巨大な世界設定へ変換されています。
読みどころ
いちばん強い読みどころは、〈呼応〉と〈トレース〉という言葉が、単なる作品内の特殊用語ではなく、人間関係の構造を説明する装置になっているところです。空子は場に合わせて人格を作り、コミュニティに馴染むため自分を微調整し続けます。一見すると器用さにも見えますが、読んでいるうちにそれは自己喪失と紙一重だとわかってきます。自分の意思で選んでいるようで、実際には「この場で嫌われない形」に体ごと従っている。その危うさがじわじわ効きます。
もうひとつの大きな軸がピョコルンです。ふわふわの白い毛と甘い鳴き声を持つ、見た目にはかわいい存在として現れるのに、物語が進むほど、そのかわいさ自体が社会を変える力を持ちはじめます。最初はペットのような存在だったものが、技術の進展と結びついたことで、世の中の仕組みや価値観を揺らし始める。この流れが上巻の時点でかなり鮮やかで、かわいいものがそのまま救いになるとは限らないという村田作品らしい不穏さが全開です。
空子という主人公の設計も見事です。彼女は激しく反抗するタイプではなく、むしろ周囲に滑らかに馴染み続ける人です。だからこそ、読者は彼女を通して世界の歪みを内側から体験することになります。声高に異常を告発するのではなく、異常のほうに身体が合わせてしまう感じが怖い。空子が蓄積していく小さな暴力の音や、風の感触や、場の空気の圧が、読み進めるほど身体的なものとして迫ってきます。
また、本書はディストピア小説でありながら、単に管理社会の怖さを描くのではありません。空気に合わせる快適さ、楽であることの魅力、面倒な衝突を避けられる安心感も同時に描かれるので、読者は完全に外側から批判者として立てなくなります。自分も少しは空子と同じように「世界に媚びるための祭り」に参加しているのではないかと思わされる。そこがこの作品の鋭さです。
上巻だけでも、世界のルールが静かに、しかし決定的に変わっていく気配が濃いです。第一部完という区切りに向けて、個人の生存戦略だった〈呼応〉と〈トレース〉が、社会全体の価値体系に接続されていくので、読後はかなり足元がぐらつきます。ページ数はありますが、異様な熱と不安が持続するので、読む手が止まりにくい長編です。
類書との比較
村田沙耶香の『コンビニ人間』や『消滅世界』にも、社会の「普通」を解体する視点はありました。ただ、『世界99 上』はそれをはるかに大きい器でやっています。主人公一人の適応の問題に見えたものが、技術、共同体、価値観の再編へ広がっていくので、読み味はよりディストピア寄りで、考えさせられる範囲も広いです。
SF的な設定はあるものの、硬質な世界設定を論理で積み上げるタイプではなく、むしろ人間の不気味さが先に来る小説です。制度や技術の説明より、そこに適応していく人間の感覚のほうが怖い。そこがこの本の独自性だと思います。
こんな人におすすめ
村田沙耶香の作品が好きな人にはもちろん向いていますが、ただのファン向け長編ではありません。SNS的な空気、場に合わせて人格を変える感覚、かわいいものや便利なものが社会規範と結びつく怖さに関心がある人にはかなり刺さります。逆に、明快な善悪や安心できる現実離れしたSFを求める人には、かなり不穏で疲れる読書になると思います。
感想
読んでいて強く感じたのは、空子の特異さがそのまま現代の普通の延長に見えてしまう怖さでした。人に合わせて話し方を変える、場の空気に合うキャラクターを選ぶ、安全な振る舞いを優先する。程度の差こそあれ、誰でもやっていることが、本書では極端な形で可視化されます。だから空子を異常者として切り離せず、自分の中にも同じ回路があると気づかされます。
ピョコルンの扱いも忘れがたいです。かわいさと安心感が、社会を柔らかく包むものではなく、別の支配や変容の入口になるかもしれない。その発想が村田沙耶香らしく、読後にじわじわ効いてきます。上巻の段階でこれだけ世界の輪郭が揺らぐのだから、下巻でどこまで踏み込むのかと身構えずにいられませんでした。正常と異常の境目を曖昧にされる感覚が好きな人には、かなり強い一冊です。