レビュー
概要
『殺人の門 下 新装版』は、東野圭吾の中でもかなり後味の重い長編です。下巻に入ると、主人公の田島和幸が幼なじみの倉持修によって人生を狂わされ続ける構図が、さらに逃げ場のない形で迫ってきます。上巻で積み上がった不信や屈辱が、下巻では仕事、金、人間関係の破綻として具体化し、読む側は「もう縁を切ればいい」と思いながら、その簡単さが主人公には通用しないことを何度も見せられます。
この巻で象徴的なのは、倉持の紹介で田島が東西商事に入り、そこが詐欺まがいの仕事ではないかという疑念を深めていくくだりです。辞表を出した後、会社は強制捜査を受けて破産し、倉持も姿を消す。これでやっと終わるかと思ったところで、また倉持が田島の前に現れる。この反復が本当に嫌らしく、田島の人生の節目にだけ倉持が現れるのではなく、節目そのものを作り変えてしまう存在として描かれます。
読みどころ
本書の読みどころは、犯人当てや密室トリックではなく、「これほど憎んでいるのに、なぜ自分はこの男を殺せないのか」という一点を徹底して掘るところです。普通の復讐譚なら、被害が積み上がれば積み上がるほど読者の気持ちはまっすぐになります。けれど『殺人の門』では、田島に同情するほど、田島の優柔不断さや被害者意識の濃さも見えてしまう。倉持を憎みながら、田島自身の弱さにもいら立つ。この読みにくさが逆に作品の芯になっています。
下巻で強いのは、倉持が単なる悪人として処理されていないことです。もちろん彼のやることは悪質ですし、読んでいて反射的に嫌悪する場面も多いです。それでも、倉持という人間を一言で片づけると、この作品の怖さは消えてしまいます。彼は他人の欲望や虚栄心、少しの見栄、少しの希望にするりと入り込むのがうまい。田島だけが特別に愚かだったのではなく、人が普通に抱える「うまくいきたい」「損をしたくない」という感情に倉持が食い込んでくるからこそ厄介です。
また、東西商事のくだりが効いているのは、社会的な破綻が心理の破綻ときれいに重なっているからです。田島は仕事を通して生活を立て直そうとしますが、その足場自体が倉持の手で崩される。恋愛や友情だけではなく、働くこと、普通に暮らすことまで汚されていくので、田島の中の殺意が抽象的な感情ではなく、生活感を伴ったものになります。ここが下巻の重みです。
終盤に向かうほど、「殺せない理由」が単なる臆病さではないことも見えてきます。倉持を殺せば終わるのではなく、田島の人生そのものが倉持を軸に回ってしまっている。憎しみさえも関係の一部になっていて、完全に切り離すことができない。この構造がかなり不気味です。殺意を抱き続けることでしか自分の被害を証明できなくなっているような感覚があり、だからこそ一線を越えられない。心理の粘着質さをここまで長く引っ張って読ませるのは、やはり東野圭吾のうまさだと思います。
類書との比較
東野圭吾といえば『容疑者Xの献身』のような論理の美しさや、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』のような救いのある読後感を思い浮かべる人が多いはずです。それらと比べると、本作はずっと陰湿で、読者に居心地の悪さを残します。下巻に入ってもカタルシスは簡単には与えられず、人間関係がどこまで腐るかを見届けさせるタイプの小説です。
心理サスペンスとして見ると、殺意そのものより、殺意に至るまでの長い時間を描くところが特徴です。だからテンポのいいサスペンスを求める人には重く感じるかもしれませんが、ひとりの人間の人生が誰か一人にどう侵食されていくかを読みたい人にはかなり強く残ります。
こんな人におすすめ
東野圭吾の代表作を読んでいて、もっと暗い側面を見たい人には向いています。人間関係のしがらみがじわじわ人を壊していく話が好きな人、悪意が露骨な暴力ではなく長期的な支配として表れる物語を読みたい人にも合います。逆に、爽快な逆転や綺麗な真相解明を期待するとしんどいです。読むとかなり消耗するタイプの長編なので、軽い気持ちで手に取る本ではありません。
感想
下巻を読んで強く感じるのは、「倉持が怖い」というより「倉持のいる人生から抜け出せない田島が怖い」ということでした。被害者である田島に共感しながらも、何度も同じ罠に近づいてしまう姿にいら立ちも覚えます。その二重の感情がずっと続くので、読後感はかなり苦いです。けれど、その苦さこそがこの作品の価値だと思います。
仕事が崩れ、信用が崩れ、ようやく立て直した生活にまた倉持が入り込む。そのたびに田島の中で殺意がふくらむのに、決定的な行為には至らない。この反復が、単なるサスペンスではなく、人間の執着の小説として効いています。恨みは強いのに、その恨みを抱えていること自体が相手とのつながりになってしまう。ここまで嫌な構造を長編で描き切るのは見事です。
東野圭吾の作品群では万人向けとは言いません。ですが、作家の幅を知るうえではかなり重要な一冊です。読みやすい。それでも気分は晴れない。先が気になり、読んでいて苦しい。その矛盾した感触を最後まで維持したまま閉じる下巻でした。綺麗な読後感ではなく、心に濁りを残す小説を求める人へ強くすすめたいです。