レビュー
概要
『悪意』は、「犯人は早い段階で分かるのに、なぜページをめくる手が止まらないのか」を体験させてくれるミステリです。作家が殺害され、親友を名乗る人物があっさりと犯行を認める。普通ならそこで物語が終わりそうなのに、本作はそこからが本番。警部・加賀恭一郎が追うのは、犯行の方法よりも“動機の底”です。
題名の通り、この本が扱うのは善悪の線引きではなく、人の心に生まれる「悪意」という曖昧で厄介な感情です。しかもそれが、怒りや嫉妬のように分かりやすい形ではなく、もっと日常に紛れやすい顔をして出てくる。読んでいて、背中がひやっとする瞬間が何度もあります。
読みどころ
1) “誰の文章を信じるか”で景色が変わる
本作は、手記や証言といった「語り」の形式が効いていて、読者は常に“文章の書き手”を意識させられます。言葉って、事実を伝えるための道具のはずなのに、実は自分を守るためにも、相手を傷つけるためにも使えてしまう。だから、同じ出来事でも、語り手が変わると印象が変わるんですよね。
この仕掛けが、ただのトリックに留まらず、テーマ(悪意の正体)に直結しているのが上手い。読者は推理しながら、同時に「言葉に騙される」感覚も味わいます。
2) “動機”が最後までずるずると更新される怖さ
ミステリで動機って、犯人の告白でパチンと確定することが多い。でも『悪意』は、動機が簡単に確定しません。むしろ「それっぽい説明」が何層も重なり、読むほどに説得力が出てくるのに、どこか不穏さが消えない。最後まで「本当にそれだけ?」が続く。個人的に、この感覚がいちばん怖かったです。
3) 加賀恭一郎の“温度の低さ”が効く
加賀は感情で押さず、相手に寄り添いすぎず、淡々と問いを積み重ねます。その姿勢が、悪意という熱を冷やし、輪郭を浮かび上がらせる。読者の側も、感情移入しすぎる前に立ち止まらされるので、読後に「自分ならどう書くか」「自分ならどう語るか」と考えてしまうんですよね。
4) 悪意が「無害な顔」でやってくるリアルさ
本作の嫌なところ(褒めています)は、悪意がいつも露骨な攻撃として描かれない点です。むしろ、世間体や正しさ、親しさのような、いかにも無害そうなものに紛れてくる。読んでいる間ずっと、「これって、どこかで見たことがあるかも」と落ち着かなくなるんですよね。ミステリとしての面白さだけでなく、人間関係の現実感の強さも残ります。
本の具体的な内容(ネタバレ控えめ)
事件の骨格はシンプルです。作家が殺され、親友が犯行を認める。しかし加賀が調べていくと、証言の中に微妙なズレが見つかり、そこから「何が起きたか」ではなく「なぜ、その言い方になるのか」が問われていきます。
本作が上手いのは、派手な展開よりも、日常の中の小さな違和感を積み上げていくところです。ちょっとした言い回し、過去のエピソード、第三者の見え方。そういう断片が揃っていくと、悪意が“事件の原因”ではなく“世界の見方”のように感じられてくる。ここは、読んでいてかなりゾクッとしました。
類書との比較
東野圭吾作品の中でも、本作は「トリックで驚かせる」というより、「人の心の暗さで刺す」タイプだと思います。『白夜行』のような長い陰影とは違い、文庫一冊で凝縮した“嫌な後味”を残す。読みやすいのに、消化しきれない。
また、倒叙ミステリ(犯人が分かった状態で進む形式)としては海外の古典もありますが、『悪意』は「動機を解く」ことに特化していて、感情の解剖に近い読み味です。謎解きより心理の地雷に興味がある人ほど、刺さるはず。
こんな人におすすめ
- 犯人当てより、「動機の深掘り」が好きな人
- 手記・語り手の信頼性が揺らぐミステリを読みたい人
- 読後にスカッとするより、じわっと残る後味を味わいたい人
- 加賀恭一郎シリーズの“静かな捜査”が好きな人
感想
この本を読んで感じたのは、悪意って「特別な悪人」だけのものじゃない、ということでした。誰かを嫌いになるのは簡単で、嫌いになった理由は後からいくらでも“整えられる”。しかも、整えられた理由の方が、本人にとっては本物に見えてしまう。そこが怖い。
もちろん物語なので極端な部分もあるけれど、言葉の使い方や、相手の評判を操作するような振る舞いは、現実でも見かけますよね。だからこそ『悪意』は、ミステリを読んでいるのに「自分の中にも似た芽があるかも」と思ってしまう。実はこの“自分の内側に返ってくる感じ”が、本作のいちばん強いところだと思います。
読み終えたあと、すぐに別の本を読んでも、ふとした瞬間にこの物語が戻ってくると思います。誰かの言葉を「そのまま」受け取ったとき、あるいは自分が誰かのことを説明するとき。言葉は便利だけど、便利だからこそ簡単に歪む。そういう当たり前を、ミステリの形で体に覚えさせられる感覚がありました。
読み方としては、犯人探しのテンションで追うより、「この文章は何を隠すために書かれているのか」「何を守るための言い方なのか」を意識すると面白さが増します。人の心の黒さを真正面から描くのに、文章はすごく読みやすい。短い時間で一気に読めるのに、読後にじわじわ効いてくる。そういう意味で、ミステリの中でも“感情の余韻”が強い一冊でした。