レビュー
概要
『あせとせっけん』第1巻は、汗っかきであることを強いコンプレックスにしている麻子と、香りに異常なまでに敏感な商品開発担当・名取の出会いから始まるオフィスラブです。入口だけ切り取るとかなり変わった設定で、名取が麻子に「汗の匂いを嗅がせてほしい」と頼む場面はどう見ても危ういです。ところが読み進めると、この作品の核は刺激的な設定そのものではなく、自分がいちばん隠したい部分を相手にどう扱われるか、という非常に繊細なテーマだと分かります。
麻子は化粧品メーカーの経理部で働く社会人です。毎日きちんと仕事をしているぶん、体質への気後れを表に出さないよう神経を使っています。汗をかくこと自体より、「不快だと思われるかもしれない」という予期不安の方が大きい。その感覚がかなり具体的に描かれるので、題材の特殊さより先に、麻子のしんどさへ自然に入っていけます。
読みどころ
1. コンプレックスを笑いで消費しない
多汗症という題材は、ラブコメに乗せると当事者の苦しさが軽く扱われやすいですが、本作はそこをかなり慎重に処理しています。麻子は見た目の地味さや奥手さが問題なのではなく、汗をかく自分を「人に知られたら終わり」と思い込むほど傷ついています。制汗対策、着替えへの気遣い、人前での緊張が会話の端々に出るので、読者は彼女の過剰反応を笑えません。
2. 名取の言動に職業的文脈がある
名取の第一印象はかなり危険ですが、彼の行動が単なる欲望だけでなく、香りを仕事にしている人間の執着として描かれているのが大きいです。香りを嗅ぎ分ける感覚、石けんや製品開発への真剣さが背景にあるので、人物像が一発ネタで終わりません。しかも彼は、無遠慮に見えて相手の反応を見ながら距離を修正する場面も多く、変人でありつつ不誠実ではないところが効いています。
3. 境界線の確認が丁寧
この作品が読みやすい最大の理由は、距離が近づく局面で確認の会話をさぼらないことです。麻子にとって汗は隠したい弱点なので、そこへ他人が触れるなら本来かなり危険です。本作はその危険さを分かったうえで、嫌なら断れます、無理ならやめます、という線引きを何度も置きます。相手のコンプレックスを扱うなら、好意だけでは足りず、手順が必要だと分かる描き方です。
4. ラブコメとしてのテンポが良い
テーマは重いのに、会話のテンポや表情の崩し方がうまく、読味はかなり軽やかです。麻子が恥ずかしさで固まる場面、名取が真顔で妙なことを言う場面、その後に少しずつ理解が進む場面の切り替えが良い。第1巻の終盤には「変な設定の漫画」ではなく、「この二人がどう信頼を作るかを見届けたい漫画」にきちんと変わっています。
類書との比較
職場恋愛漫画は、部署の上下関係や仕事の忙しさ、社内での秘密保持を軸にすることが多いですが、『あせとせっけん』は身体感覚を中心に据える点でかなり独特です。匂いという見えないものが関係の入口になるため、恋愛の進み方が他作品よりもずっと生身です。
また、コンプレックス克服ものにありがちな「誰かに肯定されてすぐ前向きになる」展開も取りません。麻子は喜びながらも疑い、近づきながらも引きます。この遅さが誠実で、自己肯定感がそんなに簡単には更新されないことをよく分かっている作品だと感じました。
こんな人におすすめ
- コンプレックスと恋愛を丁寧に描く作品を読みたい人
- オフィス設定のラブコメが好きな人
- 個性的な題材でも、誠実な関係描写を重視する人
- 笑えるだけでなく、人物の内面変化を追いたい人
逆に、純粋な王道ラブコメを求める場合は、題材のクセが強く感じられるかもしれません。
感想
第1巻でいちばん良かったのは、麻子の不安を「考えすぎ」や「卑屈」で片づけない点でした。体質に関わる悩みは、本人がどれだけ気をつけてもゼロにならないから厄介です。その厄介さを理解したまま、恋愛の入口に変えていく構成がうまい。読んでいて、麻子が少しずつ自分の扱い方を学び直していく過程に説得力がありました。
名取も便利な救済者ではありません。嗅覚への執着は強いし、距離感を間違えそうになる危うさもあります。ただ、相手の反応を無視して突き進む人物ではないので、変な設定でも関係性が壊れません。互いの違和感をその都度言葉にして、少しずつ通じる範囲を広げていく。その地道さが、甘いだけではない信頼につながっています。
『あせとせっけん』1巻は、コンプレックスを消す話ではなく、消えないものを抱えたまま人とつながる話でした。題材の強さで敬遠されがちですが、中身はかなり誠実です。大人の恋愛ものとしても、仕事を描く漫画としても読み応えがあります。独自設定をフックで終わらせず、人物の尊厳を守る対話へ着地させている点で、導入巻の完成度はかなり高いです。